微熱

23日頃から鬱が迫っているような気がしていた。なんだか黒いどろどろとしたものが近づいてくる感じ。低気圧のせいかと思ったが案の定スーパーネガティブになってしまった。さらに24日から微熱が出始める。せっかくクリスマスなのでおいしいものくらい食べようと思ったのにもう散々な年の瀬である。他人の幸福が憎く吐きそうになる。地元に戻って友人に会う予定も大事をとってキャンセルした。ベッドの上で毛布にくるまって2日経つ。嗅覚・味覚はあるのでコロナではなさそうだ。

割と広い交友関係を築いてきたが引っ越してから浅くなってしまい、こういう時誰に相談すればよいかわからなくなってしまった。気づけば大学時代から本心を隠すようになってしまい、正直本音を話せる人がめったにいない。大学時代から変わらず本音で相談できる親友が1人いるが、相談し過ぎるのも最近申し訳なくなってきてしまった。

職場、サークル、研究室、バイト先、家族、幼馴染、その他様々なグループにおいて僕の顔がバラバラである。演技をしているような感じがする。大学時代、梶井基次郎太宰治の暗い物語を好んで読んでいた。特に『人間失格』の主人公である葉蔵に共感した。人間生活に順応できなくて道化を演じる。残念ながら葉蔵と違って僕はイケメンではないのだが...

しかし道化を演じて何か不都合が起きないだろうか。そう悩んでいた時に平野啓一郎の『私とはなにか』を読んだ。職場での私、家庭での私、様々なグループ内での私を個人からさらに分化した「分人」として定義し、全ての分人をひっくるめて私だとした。歳を重ねていく中で個人を構成する分人の配分が変化していく(円グラフの面積が変わる)イメージである。平野もこの考え方に則って『ドーン』などの小説を書いているそうである。この内容を知り、じゃあ今のままでいいんだと思っていた。

ところが、今になって分人で捉えてきた私が崩れてきた。分人は他人と対面してできる個人の構成要素である。では対人コミュニケーションをシャットアウトし毛布にくるまってめそめそ泣きながら眠っている今の僕は一体誰だと言う話になる。自分に対する分人だと考えると合わせ鏡のようになってしまう。「病気と向き合う」という言葉が凄く孤独で暗い言葉に思えてしまった。

じゃあもういっそ日記に書いて吐き出してしまおうと思った。たまに現れるド鬱の僕は日記の読者への分人かもしれない。そう思いながら今日も横たわっている。