百度参り

ついにマインドフルネスの本を読み終わったので、次はNHKテキスト 100分de名著の『西田幾多郎 善の研究』を読み直す。去年読んだ時は「わかったと思うのだけどわからない部分もあるかも」という読後感であった。マインドフルネスの本で述べられている全体論ホーリズム)に関する知見を照らし合わせて読むと、今回はスラスラ読めた。自分の中で考えがまとまったら、また日記にその考えを残します。

多少ふらつくけれども、ここ最近はリハビリがてらお散歩をしている。今日は立ち寄った本屋で鈴木大拙の『禅とは何か』を買ってきた。宗派的宗教に興味がある訳ではなく、自己の内面に迫るアプローチ・プロセスに興味がある。それが僕と手をつないでいる躁と鬱のためにもなる。それらを知るためには別に哲学書だけでなくマンガや写真集やエッセイでも良いと思う(マンガもいっぱい買った)。何でも心の栄養になりうる素材である。

帰る途中に映画『えんとつ町のプペル』の広告があった。僕は当事者じゃないし利益構造を詳しく知らないので、大炎上しているオンラインサロンやクラウドファンディングに口出しする気はあまりない。ただ、歩きながら1つの疑問がよぎった。プペルは見ると感動する映画らしく、何回も見る熱狂的なファンもいるらしい。2回見たら「2プペ」、3回見たら「3プペ」と言うようだ。中にはとてつもないプペを重ねている人もいるようだ。例えば100プペに達したら百度参りのような心の救済を得られるのだろうか。

 

社寺に100回参拝する百度参り、約1,000日かけて1日30kmの道程を巡拝する天台宗千日回峰行、同じメロディが繰り返されるミニマル・ミュージック、以前にも紹介した同じ曲を13回連続で演奏するBiS階段のラストライブ、いずれも「途方もなく延々と繰り返すことで過去と未来への意識が消えて、現在のみに意識が集中する」という共通点を持っている。途方のない百度参りをしている間にだんだん足の疲れが出始めて、肩で息をするようになっていく。未来のことなんて考えられない、とにかく今がとてもしんどい。そうして気づけば未来の余計な心配事が頭から消えて、疲れながらも爽快な気分。その境地に達した時に初めて今の自分に何ができるかを冷静に考える余裕が生まれる。それが結果として救済に結びつく。百度参りや踊り念仏は神仏に祈る他力本願的でありながらも、自己が今に向き合う自力本願的な性質も持っているのではないかと最近思い始めている。トランス状態に至っていたと一般的に言われている踊り念仏も、いつ終演するのかわからないままメンバーや観客がダイブするBiS階段のライブも、時代は違えど本質は同じである。

 

そう考えるとプペルはどうだろう。劇場上映であるから冒頭の宣伝・エンドロールが流れ、1回1回劇場を出入りする必要があるので行動に無駄が多い。そして1プペごとに起承転結があり、ループ・環になっていない。過去や未来が消える体験構造ではなさそうだ。なのでプペを積み重ねても百度参りのようなトランス状態から生まれる救済には繋がらないと思う。僕には少し無理そうだ。ある大好きなシーンを見続けたい、何回も見比べて表現・伏線の細かい点に気づきたいならプペを重ねるのも良いだろう。しかし、感動したいなら1プペに心を全力投球で集中して味わうべきな気がする。夏目漱石がロンドン塔を見物した際、1度目の感動を壊してしまいそうで2度目の見物をやめにしたエピソードがあったような。

 

また、感動と救済は別物であることに気をつけないといけない。結局のところ、感動したその後にむしゃむしゃ噛み砕いて解釈して落とし込んで自分のものにして初めて心の栄養になる。感動と救済の間にワンクッション、ゆったりとした熟成時間が必要である。よって矢継ぎ早にプペを重ねても熟成が間に合わないのだから、じっくり構えて鑑賞すべきである。

「信者」という言葉があるけれども、まず自分自身の思想・感性を信じることが大事だと思う。とにもかくにも自分を信じて感じて考えてみることでエネルギーを生み出すことができる。自分を信じないまま他者を信じると手元には怪しい壺が残ったりする。

 

実際に見ないまま作品の中身を語ることはできないので1プペしたいとは思っているけど...1プペより2マンガのほうにそそられてしまう。映画って高いし...

 

A / にせんねんもんだい