ロマネスコの蕾

頭の整理が中途半端だけども、とりあえず日記に残してみる。

 

鈴木大拙の『禅とは何か』を読み終えた。マインドフルネスの本や西田幾多郎の『善の研究』の解説本も読んだ結果、僕が学生時代から考えていたことだけれども、

「この世界は点と線のネットワークでできている!」

ことを改めて再確認した。

原子核と電子間及び分子間の引力、運動器官と感覚器官を繋ぐ神経、隣人との人間関係、ドラマの登場人物の相関図、地下鉄の路線網、フライトの離着陸地、国家間の貿易、惑星間の引力、この世にある全てのものは点(ノード)と線(リンク)で表すことができる。ネット犯罪やSNSの傾向のようなデジタルなものも、点と線の集合体で分析することができる。複雑な関係性を点と線で表現する事例はマニュエル・リマの『ビジュアル・コンプレキシティ −情報パターンのマッピング』で数多く見ることができる。「データ・ビジュアライゼーション」とネットで検索してもたくさんヒットする。この世界はミクロからマクロまで同一形状を反復するフラクタル形状、限りなく巨大なロマネスコの蕾とも考えられる。蕾の頂点から膨大な対角線が内部めがけて飛び交い複雑なネットワークを形成する。


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宗教の「宗」という字は「大いなる」という意味があるそうだ。我々の世界は点と線のネットワークで形成されているけれども、禅宗の高僧は宇宙の果ての果ての果て、常人には想像のできない世界のネットワークまで感じるらしい。そこでちっぽけな自分の存在を自覚する。果てしない世界の中で「自分は〜したい」「自分が〜になりたい」といった欲望は意味を成さない。禅宗では座禅を通して無心になり自我を捨てる。そして、自己の中に宿るマクロなロマネスコの蕾の世界を発見する。悟りの本質は元々自己の内面の中に隠れている。それを見出すのが悟りである。とても難しい。悟りを論理的な言葉で言い表せないので、「犬に仏性はあるか?」といった公案・禅問答を用いることもある。内面のロマネスコのイメージは『鋼の錬金術師』のセリフ「一は全、全は一」に近いニュアンスなのかと思ったのだが、あのセリフはどうやらキリスト教一神教)をモチーフにしているらしいのでたぶん違う。

ただ、ロマネスコの蕾の中で自我を消した人間は間違いなく利他的になる。目線が自分から切り離され、「蕾全体をどう良くしていくか」に向いていく。このような利他・無私の話は宗教に限らず、渋沢栄一の『論語と算盤』やショーン・コヴィーの『7つの習慣』でも登場するが、どちらかというと利他と利己のバランス、いわばwin-winの関係を説いている。完全に利己を消すのは宗教特有なのだろうか。

 

今の僕の頭ではこれが精一杯である。全然わからない。のんびり本を読んで勉強しよっと。知識とともに経験の積み重ねも大事であるらしい。瞑想は日課になっているが、身体が非常に固いので背筋などがぷるぷるする。別に僕は禅宗の人間ではないけれども、スマホを手放して1人ぽつねんと漂うのは結構興味深い。

先日Youtube臨済宗の修行のドキュメンタリーを見たが、掃除や食事の所作一つ一つが修行なのだそうだ。僕の部屋はというと...掃除しないとね。最近はヘッドマッサージのヘアサロン向けマニュアル動画を見た。客の頭皮がぐわんぐわん動くシーンで爆笑してしまった。本当にありえない動き方をする。好奇心が働いて変わった動画をよく見るので、それらを日記に今度まとめとくか。

そういえば同時並行で槇えびしのマンガ『魔女をまもる。』を読んだ。中世ヨーロッパにおける人狼魔女裁判黒死病・異端審問などをテーマに、精神医学の先駆である実在の医師ヨーハン・ヴァイヤーを描いている。ありもしない流説が蔓延る中で魔女とされた人々をどう救済するのかという姿勢は、コロナ禍の現在だからこそ共感できるのではないかと思う。

このマンガを読んで西洋の考え方も知りたくなったので本を2冊買ってきた。1つは河合隼雄の『ユング心理学入門』。もう1つは同著の『ユング心理学と仏教』。東洋と西洋の考え方を統合して自分のものとして腑に落ちればと思っている。

 

魔女をまもる。(上) (Nemuki+コミックス)