二項対立の僕たちは

※ここ最近制作していたリトルプレス版の「あとがき」の文章です。

 

LOFTで買ってきた黒い紙にカッターで長方形の穴を開ける。コピーした原稿に黒い紙を重ねてホッチキスで留める。そして僕の顔のイラストに配したタイトルが穴を通して見えるか確認する。その作業を繰り返していると、自分で自分の頭の中を覗いているような気がしてきた。そして誰かに覗かれているような気もした。今もこれからも。


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この日記は双極性障害(躁鬱)になった僕の2か月を徹底的な客観視で記録したものである。日記を書き始めた当初は僕と病気が闘うような構図だと思っていた。日記を書き始める時にタイトルを「闘病日記」にしようとも考えていた。

ただ、自己の内面の中にあるものと自己が闘うのも変な気がして「漂流日記」にした。これは正解だったと思う。鬱と躁、内面の黒と白が対立せずに共に歩んでいく感じ。それを第三者視点、客観視、3人目のサーファーが後ろから見守る、内面を覗き込んで深く考える形。これが僕の躁鬱との向き合い方だった。それに気づくのは日記を書き始めてからかなり後になったが、日記を書き始めた頃の文章を見る限り本能的、防衛的に3人目を生み出していたように思う。

日記を改めて読み返すと新たな気付きを得ることが多い。過去の伏線が今活きてくるような、人生の一筋の軸の周りを伏線が絡みついているような感じ。今はっきりと認識していることを過去の僕は無意識になんとなく気づいている。

読み返して涙が出ることもある。淡々と書いているけれども、とてもしんどかった日々がすぐに思い出される。日記をこのような本に残すため、全文を音読し朱を入れて加筆修正した。過去の感情が僕の中に入り込んでとても苦しい。命を削ったかもしれないが、やる甲斐はあったと思う。

今も症状は残っているが、鬱と躁が僕の中に溶け込んで一体になったような捉え方に変わった。闘う敵はいない。病気だという意識は無く、僕の個性なんだと思う。この本では鬱と躁の1サイクルのうち、鬱の半周期を記録した。今後躁を経験して1サイクルを記録すれば、2周目、3周目以降のループを漂う僕にとって非常に役立つのではないかと思う。

 

本当にたくさんの方々に助けていただいた。2020年11月頃までは家でゲームばかりして引きこもっていた。日記を書き始めて友人から久々に連絡が来たりするとやはり嬉しい。自分一人ではなかなか生きていけないことを痛感した。頼るのが下手な僕だけど、躊躇せず頼るようになった。あまり本音を出さない自分だったけど、前に進むのであればさらけ出すようになった。そうして様々な繋がりが日記を通して生まれた。もちろん、この日記を通して僕の頭の中を盗み見ているあなたもその一人です。何か1つでも心に引っかかるものがあれば僕はもう嬉しいです。

ただ、1点だけ僕からお願いしたいことがあります。僕の症状・経験が他の方々に全て当てはまるかというと、やはりそうではないことに気をつけてください。皆抱えているものは人それぞれです。この日記に書いていることをそのまま当てはめるのは危険です。僕はあくまでも1サンプルです。そうではなくて、先入観を持たずにその人をじっと見つめて向き合う、SOSのその声を耳と頭で聞くことが大事であるとこの日記で伝えたつもりです。そして、それがコミュニケーションの本質だと思っています。

 

また、対立や分断を煽る社会の中でどのように身を置くかという点に散々頭を悩ませた。僕は医師の助言で緊急事態宣言下に飛騨高山に旅行した。僕にとっては要・急だった。大切な出会いもあった。しかし、社会にとってははたして要・急かというとそうはならない。僕の存在から遠く離れるほど、不要不急と捉える方々が多いと思う。僕が同心円の中心となり、意見のグラデーション・濃淡がある感じ。ワクチンを打つ・打たない、マスクをつける・つけないのようにコロナ禍において様々なことで対立・分断が発生している。火を付けて煽っている人もいる。ただ、おそらくこれらは様々な考え方があり一概に白黒つけられない。日記にも何回も書いたように、この世界は膨大な多面体でできている。そして面がズレにズレて歪になっている。

もちろんこの日記に対する批判も多くあると思う。飛騨高山の日記を書くのをやめようか、逃げ出そうかとも思った。それでも書いたのは、やはり多面体の中の1つの面を記録したいと思ったからである。コロナ禍が終息した後に、僕たちの我慢の日々が美談という一面のみに加工され処理されそうな気がしてぼんやりとだけど恐れている。医師の助言を受けての行動なので難しいところだけども、僕のように我慢できなかった人間だって確かにいる。その行動の是非なんて今はわからないけれど、1つの面をありのままに残すことに意味があると信じている。

正直、今の社会が僕にはとても怖い。心の波に大きく影響を与えるので今はニュースやTwitterのトレンドをあまり見なくなってしまった。例えば政治家を「価値観が古い」という観点からボカスカに叩くのも実は非常に危うい行為だと思っている。確かに政治家に非はあるとは思うのだけど、アップデートの観点から冷徹に処理しようとすると現代の姨捨山になってしまう。価値観が違うために切り捨てることを良しとすると、未来の姨捨山に捨てられるのは60年後の僕たちである。価値観の違いやジェネレーションギャップの埋め方を忘れてしまうと、どうしようもないよ。じゃあどうすればいいのと聞かれると明確な答えがスパッと出なくてもどかしいけど、僕たちは言葉を持っていることは確かである。

 

僕と病気、躁と鬱、自己と他者、対立する意見や集団、社会。結局のところ、この日記の主題は「二項対立に陥りやすい世界でどう手を繋いで共に歩んでいくか」である。それを模索する泥臭さの中に美しさがあると思う。この本の表紙は黒と白の対立が際立つようなデザインにした。それらが対立することなく溶け込んだ、透き通った表紙が似合うような世界が訪れるよう、僕は1人暮らしの部屋の中でぽつんと祈り続けている。


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