操縦者は誰か?

恥ずかしながら坂口恭平さんの『坂口恭平躁鬱日記』の存在を今頃になって知る。てきちゃん漂流日記の大先輩だ、読まねば読まねば。この本の紹介文を読むと、

 

「青年期からこの病に悩まされてきた著者は、試行錯誤の末、この病はもはや自分では手に負えないと諦め、「意のままにならない『坂口恭平』をみんなで操縦する」という方針に転換した。」

 

と書いてある。昔に書いたてきちゃん漂流日記を慌てて見直すと「鬱と躁の人格の間に客観的な第三者を挟んであげて、3人で手を繋いで操縦する」みたいなことが書いてある。もしかして、坂口恭平さんと僕で双極性障害に対するアプローチが少し違うのではないかという気がする。みんなで操縦するか、複数の人格を客観的に1人で操縦するか。アプローチを比較して見ると新たな気づきがあるかもしれない。

 

これから僕は何しよう。ジュンク堂ヴィレヴァンに行って書籍を物色するが、これがしたい!というのがイマイチ見つからない。探すよりも自分の心に聞いてみた方が早いなと思った。今の僕が楽しんでいるのは「考える・作ること」だ。

クロッキー帳の中心に赤ペンで「考える・作ること」と書いてみる。それからマインドマップ的に連想して色々書いてみる。

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このようなスタイルで、僕は1人で作戦会議ができる。まだ少ししか書いていないが、なんとなく感じたのは以下のとおりである。

 

双極性障害・自分をより深く知りたい。

その思いはやはり強い。より深く内面を捉えたい。心理学を勉強してみたいと思うが、当事者が独学で勉強するのは危険なようにも感じる。だからといって大学で学ぶのかというと、大学の授業料は今の僕にとってお高い(特に私大は)。心理学を学ばなくても日記を書き続けて日常を考えるだけでも僕には十分なのかもしれない。一旦考えるのを中断。

 

双極性障害の知り合いを持つべきか?

知り合いに双極性障害の方がいない。そういう訳で僕は1人漂っている。先に述べたアプローチの違いしかり、対話して比較して見えるものがある、より深く知ることができるのではないかと思ったりする。漂流仲間との出会いが必要かもしれない。

 

○日記がどのような意味を持つか。

日記を通して自分の感情を客観的に記録する。後で読み返して新たな気づきを得ることが多い。要は自分自身に対して役に立っている。その日記を整理して本にした今、他者がそれを読むことに、他者の知らない世界を晒すことにどのような意味があるかという点に自覚的になってないといけないと思う。そもそも双極性障害を知らない人も多い中で、日常の記録を公開することの意味、それが持つ社会性が何かをこれから考える必要がある。社会性なんて関係ない、自分のために日記を書く!というのもそれはそれで1つの答えではあるが、非常に勿体ない気がする。どうせ書くなら、文字を通して対話してみんなで考えるようなきっかけになるようなものにしたい。それがみんなで操縦することなのかもしれない。

 

のようなことを深夜に考えていた。