拡散する解釈、収束する解釈

※問題となった動画はYoutubeで既に削除されていました。

 

起床してTwitterを見たら報道ステーションの新作CMが大炎上していた。報ステも燃えるんだなあと思い、フルグラをほおばりながら問題となった15秒版CMを見る。そもそも、全く何が言いたいのかわからなかった。意図が全くわからない。

1974年に放送された『星の子ポロン』というカルト的人気のあるアニメがある。1話1分で起承転結を終わらせようとするが、悲しいかな、起承転結が支離滅裂な回がほとんどである。ポロンを見ている感じに近い。

 

30秒版もあったのでそちらも見る。全体像・意図がなんとなくわかるが、それでも短時間で話し手の話題がコロコロ変わって断片的なので非常にわかりづらい。

1974年に放送された『チャージマン研!』というカルト的人気のあるアニメがある。1話5分で起承転結を終わらせようとするが、悲しいかな、5分になっても起承転結が支離滅裂な回がほとんどである。チャー研を見ている感じに近い。

 

30秒版のセリフは以下のとおり(ハフポストからの引用)。

 

「ただいま。なんかリモートに慣れちゃってたらさ、ひさびさに会社に行ったら、ちょっと変な感じしちゃった」

「会社の先輩、産休あけて赤ちゃん連れてきてたんだけど、もうすっごいかわいくって。どっかの政治家が『ジェンダー平等』とかって今、スローガン的に掲げてる時点で、何それ、時代遅れって感じ」

「化粧水買っちゃったの。もうすっごいいいやつ。にしてもちょっと消費税高くなったよね。でも国の借金って減ってないよね?」

「あ、9時54分!ちょっとニュース見ていい?」

最後に女性の顔の上に大きく「こいつ報ステみてるな」というテロップが入る。

報ステのCMが「悪質」な理由。「ジェンダー平等を掲げるのは時代遅れ」と描き、批判が集まっている | ハフポスト (huffingtonpost.jp)

 

一番炎上しているのは「ジェンダー平等」の部分だけれども、

「民間企業でここまで進んでいるのに、今更政府がスローガン掲げるのは時代遅れじゃない?」という政府への皮肉ととるか、

ジェンダー平等って時代遅れじゃない?」という直球の解釈をとるかで真逆になる。

真逆のイメージが視聴者に想起される点でCMとして失敗だったんだろうなと思う。そして、ストーリーの無い断片的な情報に頼るのもかなり無謀なことをしたと思う。言葉狩りの時代、そりゃ炎上しますがなと思う。さらに、そもそも意味がわかりづらいのが仇となった。ストーリー構成が雑。

一方で、直球的解釈を展開して批判をすることにも、それってどうなんだろうと思ったりする。言葉を読み取った上での冷静な批評だけでなく、表層しか読み取らない故の早とちりな行為と、あえて火をつけようとしている確信犯の犯行が混ざっている可能性もある。言葉の意図を読もうとするのをやめて、特定ワードで反射的に出撃する空中戦を繰り広げていると、みんなビビって比喩や皮肉を取っ払った理解しやすい言葉と表現だけになってしまう。それは味気ない気がする。有川浩の『図書館戦争』に登場する「メディア良化法」に則った検閲を、SNS相互監視でやるような社会にしたくはない。まあ、あのCMは「ジェンダー平等」以外にもツッコミどころ満載らしいが。

 

とはいえジェンダー論の知識が僕には無いのでそこを深く分析することができないのがもどかしい。映像表現の話しかできない。大学のジェンダー論の講義、単位落としたんです誠に恥ずかしながら(確か最終レポート締切日をすっかり忘れていた)。

CMのターゲット層はYoutube世代の私たちだろうね。テレビの画面から演者を覗き込むようなカメラアングルが、結果としてYoutubeっぽいニュアンスが生じている。僕はCMを見た時になんとなくフワちゃんを想起したけれども、フワちゃんに対してみんなはどういうイメージ像を抱いているんだろう。フワちゃん的若者像を制作陣は意識していたと思うんだけどな。僕のフワちゃん像がズレていたら嫌だな、テレビ買うか。

このCMに「若者、特に女性をバカにしている!」という批判もあるけど、少なくとも単位を落としちゃった僕はおバカなのでちゃんと学ばければなあと思う。空中戦を正しく見るために。

 

 

多義的な解釈という点で思い出すことがある。2年前、僕はあいちトリエンナーレ開催直後の『表現の不自由展』を実は見ている。あの、物議に物議を醸してとんでもないことになったあの展示。まさかあんなことになるとは思わず、あの展覧会の数少ない語り部になってしまった。表現の不自由展の感想を書いておこう。展示を見て真っ先に出た感想は、実は思想に関することではなくて、

「作品の選出プロセスが他のブースと確実に異なる気がする。明らかにこの展示だけそもそもの作品の強度が落ちている。」だった(実際に表現の不自由展はチーフキュレーターが関与していなかったらしい)。そりゃ見て良い気持ちはしなかったけど、良い気持ちにするのはアートの役割ではないんだけど、とにもかくにも気になったのはそこである。

 

例えば展示の中に九条俳句というのがある。

「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」

という俳句である。地元の句会で秀句とされたが、公民館は「公平中立の立場から好ましくない」として公民館だよりに載せなかったという経緯がある。そういう経緯で俳句が展示場に掲示されているのだが、明らかに他の展示と比べて異質に感じた。「取り下げられたという経緯・文脈」のみで作品が国際芸術展に出展されるほどの「現代」美術としての強度を持つかという点で疑問に思った。単純な解釈で終わってしまうような作品にそういう強度は無いなと感じた。心が揺れない。

 

逆に、表現の不自由展の外部には凄まじい熱量・強度の作品があった。高嶺格さんの『反歌:見上げたる 空を悲しも その色に 染まり果てにき 我ならぬまで』という作品である。


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https://artne.jp/column/797

廃校になったプールの底をひっぺかして、垂直に立てる。意図的に沖縄とはつなげていないけれども、沖縄で、受け取った反抗のエネルギーや怒りとつながっているかもしれないと作者は言う。ちょうど辺野古移転の県民投票の直後である。この作品を見た時に「可逆的な解釈ができるな」と思った。

このプールは、辺野古で海を埋め立てていく様子を暗示しているかもしれない。一方で、埋め立てられたコンクリートを海底から剥がしていく希望の光景かもしれない。どちらにせよ様々な解釈ができるけれども、その解釈の進む先が反戦といった1方向に収束されていく。作品名が短歌なのも、意味を限定させたくなかったので、歌人の友人に作品を見て詠んでもらったとのことである。僕の思想はほんの少し右寄りだけれども、この作品にはドキッとさせられた。右も左も問わず人の心を大きくナチュラルに揺さぶっていくこの作品の強度・懐の大きさに感動した。

 

芸術としてのあり方として、高嶺さんの作品が素敵だなと思う。作品を見て私たちは自分たちの経験を交えながら十人十色の解釈をすることができる。ただ、その全ての解釈が高嶺さんの思い・意図からは大きく外れない、噛み砕いて、収束していく。その上で批評の土俵に移っていくプロセス。その中で制作者が意図・思いを伝えようとするパッション、鑑賞者の作品をちゃんと目で見て考えるステップ、それらが情熱的かつ冷静に噛み合う感じ。

CMもそうあるべきだろうな。でも、問題提起型のアートもあるし、もっと複雑だろうな。一義的・多義的な解釈について今日はぼんやり考えていた。

 

 

あいちトリエンナーレ2019は大変なことになったが(僕が見た日に河村市長が会場に乗り込んだ)、高嶺さんの作品以外にも本当に心揺さぶられる作品が多かった、これは間違いないことです。2022年の開催も決まっているらしいので楽しみ。