喪の儀式について

数日前の早朝、目が覚めてスマートフォンを見る。尊敬していた、憧れていた方が逝去されたことを知る。あまりに突然のことで実感が湧かず、涙も出なかった。

 

昨年コロナに感染し、その後も引き続き病室で後遺症と戦い、車椅子生活ながらも退院なさっていたので、つい最近は安定したものだと思っていた。ところが、最近容態が急変して再入院していたらしい。

片やコロナで入院、片や僕は双極性障害で休職。LINEで麻雀の話だったりゆるい話をやりとりして、近況報告して、支え合ってきたので、戦友であると個人的に感じていた。「お互い復帰したら麻雀やるぞ!」と約束していたのに、叶わぬこととなってしまった。

 

早朝からポカーンとしたまま、時間が過ぎる。朝ごはんを食べても落ち着かない。コロナ禍だからきっと葬儀に参列できず、対面できないままさよならになってしまうのだろう。実感が湧かないまま、日常が流れることが怖く感じた。墓前で麻雀しないと現実として受け止められないだろう、そう思った。みんなで集まって大泣きして、生前のエピソードで笑って、さよならすることもできない、もどかしくて心苦しい。

落ち着かなくて、不安になって誰かに話したくなるが、平日の午前、しゃべり相手がいない。とりあえず母に電話してみる。「思い出すことも供養。」とのこと。かなり救われる。昼に「本・ひとしずく」の田中さんにお会いする。いろいろ話しつつ、自分の中で言語化・再構築して現実が形成されていくような気がした。現実と対峙する気に徐々になった。

 

今読んでいる山内志朗の『過去と和解するための哲学』の冒頭に「喪の儀式」に関する記載があったことを思い出し、ページをめくる。

①無感覚、心がなくなり、何も感じられない状態。

②喪失を否認する状態、もしかしたらどこかに生きているのかもしれない、私が欺されているのかもしれないと思おうとし、認識のレベルで過去を取り戻そうとする。

③事実を認識して、絶望と悲哀の状態に入る。

④喪失を事実として受容し、対象から離脱して、未来に対して歩み始めなければならないと思うようになる。

の4段階を、死を受けとめる過程、喪の儀式としてフロイトは想定したらしい。①のままで留まってしまいそうだ。だけど、このままポカーンとしたままだったら、空から怒られそうだ。

 

コンビニでビールを買ってきて、冷凍庫でキンキンに冷やしたグラス2つに注ぐ。今の僕にできることはそれくらいしかない。飲み始めてすぐにワンワン泣いてしまった。おすすめされた本がまだ読めていない、麻雀ももっとしたかった、後悔がいろいろと募る。そこからはいまいち覚えていないが、ハイボールスミノフも飲んだ。そして気づけば朝だった。

 

遥か遠い存在のロックスターではなく、身近な存在を対面することなく見送らなければならないこと、これは本当に理不尽なことだと思う。こんな暗く意味不明な時代は早く吹き飛んでしまえと思う。ただ、1日1日が淡々と繰り返され、日常が流れていく。その中で何ができるのか。仲間想いで優しく、どこかチャーミングで、熱く頼もしいその存在に僕は近づけるだろうか。思い出すことだけでなく、受け継ぐことも供養なんだろうな。近づけるように、頑張るんだろうな。