ポリティカルないきものたち

ROCK IN JAPAN FESTIVALが中止になってへこむ。経緯を知って尚更へこむ。へこみっぱなしのここ最近。身体がデコボコになって尖ったり引っ込んだりする。恨めしいことも多いが、握った拳を抑える。連日の雨で膨張する洗濯物の山。憂鬱な日々を過ごす。

 

友人から市議会の選挙のお手伝いを依頼される。ポスターなどを作るのだろうか。むむむと悩んで、どこの政党か聞く前に断った。「政治的中立」を理由に。

こういう言い方をすると、「ノンポリだ!」とボコボコにされそうで非常に怖い。別に全く政治に興味が無い訳ではなく、選挙をサボったことはないし、マニフェストを隅々まで読むし、市報の議会ページも読んでいる。自分のペースで考えて、選ぶ。

この政策テーマはこの議員が良い、あの政策はあっちの議員が良い。というふうに、様々な軸が存在して金平糖みたいなグラフが形成されている。その金平糖を総合的に見て、選ぶ。定員1名なら、メインの候補者とサブの候補者を選ぶ。メインに投票するが、サブが当選しても喜ぶ。こういうの何というんだっけ。3連単ではないのは確かだ。

絶対どこかで偏りがあるはずだけど、候補者を選んでチェックする審判は自分であり続けたい。ある政党を応援するとなると、自由度が下がって僕が審判でなくなってしまう。だから、「政治的中立」というよりは「政治的自由度」という言い方が正しいのかもしれない。

選挙の時に1票投じて、署名に1人の名前を書き、デモの時は1人分立つ(デモに参加したことないですけど)。Twitterで展開されている政治プロレスは何人分の声かわからないからなあ。RTで無秩序に増幅される声でしばき合ってもそれは幻想のように感じてしまうし、その声の中に不純なものが結構混じっているように思えるしなあ。どうしても、怒り・声の大きさが全てではないように思う。真偽を見極めるのが大変だから、時間がより一層かかる。自分のペースでじっくり考えていると、パンクしていく。

そうそう、大喜利的政治ツイートのどれもが全く面白くないんだよなあ(そこかい)。

そう考えると、僕はSNS・ネット誕生前のスタイルなのかもしれない。「時代に逆行している」「(現代において)ノンポリである」のかもしれない。改善の余地ありなのかなあ。政治学の勉強、義務教育で止まっているからなあ。

選挙で候補者を選ぶ時は、なるべく長期的視点を持ったマニフェストの人を選んでいた。しかし、このご時世、そうは言ってられないのかなあ。

 

最近、夜中にそういうことを考えて眠れないことが多い。寝ぼけ眼で産業医面談を受ける。物事に熱中・没頭すると躁や鬱を忘れるんじゃないのと仰る。それはそうだと思う。坂口恭平さんも少し前のTwitterで、全てのネガティブな言葉を「手を動かしていない」で言い換えていたし。ただ、知らぬ間に躁や鬱が転換していたら怖いのは怖い。そのバランス感覚。サーカスの玉乗りのような感じ。

 

印刷会社からメールが届く。カバーのチェックが終わって印刷が始まる。別の日には表紙のチェックも終わった。今度は本文のチェックも終わった。絶対どこかで訂正を食らうと思っていたのに、すんなり通ってしまったので逆に不安が募る。

手作りで本を作っていた時は、カードに紹介文を書いて同封していた。できるだけ今回もやってみよう。昨日、50枚のカードの両面にコメントを書いた。Youtubeで『鶴瓶・上岡パペポTV』の動画を見ながらリズムよく書いていく。さすがに腕が疲れたが、達成感はひとしお。やはり手を動かすのは大事。やり切った感が心を少し晴らせてくれる。

 

ポリティカルなことを次に書く時は、もう少し賢くなっているのだろうか。わからないことだらけだけど、無関係ではないもんねえ。

 


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