エゴ・リサーチ

今から書く内容はドン引かれることなのかもしれない。

 

てきちゃん漂流日記が発売されて以降、ぽつぽつと感想がネットにあがるようになった。Twitterで「てきちゃん漂流日記」と検索してエゴサーチをする。ここまでなら、まだ許されそうな気がする。

 

問題は、読者の皆様の感想及び書店さんの紹介文をノートに記録していることである。検索にヒットしたものは基本的に全て。コメダでアイスオレを飲みながら、ペンを持ってびっしりと。

というのも、僕にとって当たり前と思っていたことが当たり前でなかったり、新しい視点・捉え方・違和感がそこにはあって面白く感じる。日記を書くことが自己分析とすれば、エゴサーチは他己分析。そして、これは一体どういうことかしらとムムムと悩んだりして。多面体と多面体が重なり合って、別の複合体が生じているような感触が頭の中でする。だから、僕のエゴサーチを気にせず、ありのままに書いてあげてください......お願いします......

 

感想の中で特に気になったのが「他者に常に開かれている」という言葉。自分の体験をリトルプレス等で記録したいけれど、なかなか客観的な言葉で綴ることができないという声をよく頂戴する。昨日ひとしずくさんでゲットした文芸ユニット「るるるるん」さんの日記にもトラウマの表現に関する記述があって、読みながら考え込んでいた。

 

 

「トラウマ、文字に書いてみるとあまりにも凡庸だったりする。殺人事件みたいに現実では稀有でも推理小説の中ではありふれてる、そういうかんじ。そんな陳腐さに直面できるほどメンタルは鍛えられていない。デフォルメして書こうとしてみせたりするけど、それを俯瞰できたらトラウマで悩んでない。(るるるるんDiaryより)」

 

 

僕が常に開かれている(らしい)文章を書けているのは何故か。しばらくふにゃふにゃ考えて一応どういうことかわかった。答えは「他者を信じているから」。逆に言えば「僕の場合は勝手に自己肯定感が下がる自爆型だから」。気にし過ぎのその病が勝手に自分を陥れているだけで、他者は何も悪くない。問題は自分の掌の中に収まっている。ある程度の範囲で俯瞰できるし、デフォルメだって自分の心の許す範囲でできる。だから、他者を信じて、助けを求めていて、話を聞いてほしくて、開いている。バカ正直すぎて『LIAR GAME』の主人公、神崎直みたいになるのも困りものだけど。

そういえば、昔の日記にも書いたけど、関西に生まれてしまった運命か、話にオチを付けないと気が済まない。それも理由の一つかもしれない。

それでも、時々それでいいのかと悩むこともある。カラッとドライに書きたいけれど、削りすぎて重要な要素が抜けてはいないかと。目を背けてないかと。ウェット(具体)とドライ(抽象)の理想的なバランスは見出せないでいる。

 

一方で、例えば過去に凄惨ないじめを受けたような、他者との関係において発生したトラウマだともっと複雑な構造になるのだろう。僕なら日記に書けないと思う。過去との折り合い、現在の他者との関係のダブルパンチで筆が止まる気がする。

例えば療養文学とグルーピングしても、個々の作品が持っている痛みとアプローチは必ず異なる。それぞれがもがいてもがいて現れたものだと思う。だから、漂流日記のあとがきにも書いたけど、僕はあくまでも1サンプル。こればかりは僕も明確な答えを持っていない。だから、いろんな人と話してみたい。るるるるんさん、どこかでお喋りする機会ないかな...

 

周囲の環境を感じる、捉える、考える、日記に記録する、他者に届く、他者の声がこちらに届く。そのプロセスの中で頭の中はどうなっていくのだろう。アンドロイド研究で有名な石黒浩先生の『人間とロボットの法則』(B&Tブックス)を読んでふと思う。この本は画期的で、右ページに文章、左ページにその内容を図解したイラストが対に掲載されている。3次元の空間で起こる物事を頭の中で咀嚼して、文字やイラストが2次元の紙面上に立ち現れる時には何が起きているのか。益々気になってくるので本を買う。1つは『基礎から学ぶ認知心理学』(有斐閣ストゥディア)。ユーモアと事例に溢れていて初学者の僕もスイスイ読めて非常にありがたい。もう1つは哲学系の雑誌『ニューQ』の第3巻。特集の「グラフィックレコーディングの哲学的探求」が気になる。グラフィックレコーディングとは議論をホワイトボードなどで可視化すること。事象・思考を平面次元へ変換するプロセスとして捉えれば非常に参考になる気がする。あとは、日記に関する論文もネットで探せばいろいろ見つかった。印刷して読みたいがプリンターが自宅にない。まあ、そのうち読むでしょ。