日本日記学会(1)

日記を書き始めてからというもの、不思議な生活を送っています。気付いたら本を制作しており、ついにはジュンク堂書店さんに置かせていただけることになりました。一体何が起きているのか、自分でもよくわかっていません。感じるままにひた走ったら、いつの間にかこうなっていました。

 

だから、一旦ここで、今までのことを落ち着いて振り返ってみようと思います。そして、「日記」が何なのか、どんな世界へ連れてってくれるのか、自分なりに考えてみたいのです。

でも、「日記」だとあまりにも大きな括りなので、自分の経験に即して細分化してみました。

  1. 事象を経験する
  2. 頭の中で物語を作る
  3. 物語を日記として書く
  4. 全体を俯瞰して編集する
  5. 本をデザインする
  6. 販売交渉する
  7. 販売する
  8. 読者の感想を受け取る
  9. さらに複合的な動きに繋がる

9つのステップがパッと思い浮かびました。でも、全てを一気に書き残すのは大変です。今日は3番、日記を書くところまでにします。現時点で捉えられないこともあるけれど、そのうちわかることもあるでしょう。そこはご愛嬌ということで。

 

1.事象を経験する


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初っ端から難しい内容で困っちゃいます。とりあえずイラストを描いてみました。

以前の日記『フラワー・ガーデン』にも書いた通り、我々の得る経験には「同期」と「フィードバック」のプロセスがあると考えています。発話、ジェスチャー、手紙など、手段は様々だけれども、私の考えをあなたに伝える同期、それをキャッチしたあなたの考えが私に伝わるフィードバック。それをキャッチボールのように繰り返して、事象を経験する。あなた、というのは人間でなくても音楽や本や街並みなど多種多様です。

そして、ボールをキャッチして相手へ投げる間に、受け取ったものを頭の中で嚙み砕いている。問題になるのは、人によってどう噛み砕くか、どう解釈するかが全然違うという点です。「事象をどう見るか」は過去の経験に依存します。過去の経験を基に解釈をする。それは、フレームワークやルーティーンという言葉で言い表すことができるし、先入観や偏見とも言える。効率的だけど、誤った見方につながる可能性もある。

僕はなるべくニュートラルに見たいという思いがある。真善美に対する真っすぐな目を持ちたい。直観で捉えたい。けれど、やっぱり難しいです。ただ、バイアスを持っていることに自覚的であるだけでも、意味はあるのだろうと思います。

鶴谷香央理の漫画『don't like this』に出てくる主人公が理想的かなと思ったりします。今まで全く興味がなかったのに、主人公は突然釣りに目覚め、どんどん釣りにハマっていく。「よくわかんないけど、やってみよう」みたいな脱力した感じ。終盤の「食わず嫌いなのに、雑食よね。(だったかな)」という主人公に対する台詞が好きです。

 

最近、小林秀雄の『学生との対話』を読んでいたのですが、そこでは自分自身の心を直接的に見ることはできないと仰っていました。周囲から自分を間接的に知ることができると。また、歴史を読み解く時には現代の価値観・心で捉えるのではなく、当時の人間の心になるべきと。そして、自分を知ることと、歴史家になることは同義であると。なんだかそこに、日記の役割があるのではないかという気がします。日記に自分や周囲のことを書き残す。積み重なって1つの歴史となる。数十年の自分の歴史も数千年の文明の歴史も、同じ歴史である。昔綴った日記を読んで当時の心を思い出す。それに対して揺れ動いた自分の現在の心に目を向ける。日記が現在の自分を映し出す鏡となる。そうそう、詩野うらの漫画『偽史山人伝』に収録されている短編『現代路上神話』にも、認識に関する大事なことが描かれてます。心の中にあるものは存在するか、という大事なポイントですね。

 

僕の経験のことも書いておきましょう。双極性障害と診断されたのは昨年ですが、正直なところ20歳の頃から症状を自覚しています。1か月間一切大学に行かなかったこともありました。けれども、それは自分の性格によるものと思っていました。自分の中に症状を取り込んでコミュニケーションしていない状態。諦めている。それが診断で病気であるとわかると、性格と症状が分離する。それだったら頑張れば改善するのではという気になって、病気を知ろうと分析的になるけれども、どうしてもわからないことがたくさんある。一方で、ふとした時に病気が教えてくれることもある。僕と病気で同期とフィードバックですね。ただ、いつ教えてくれるかわかりません。本居宣長は『古事記伝』を書くのに35年かかったとも言いますし、のんびり、どっしりと構えることも大事なのでしょう。全てを解き明かそうと躍起になるのではなく、心の余裕と言いますか余白・スペースを残しておくことが大切なのかと思います。病気が教えてくれる時は、ちゃんとバイアス無く聞いてあげようとすると。これが、身に纏ってフィットしたかと思えばたちまち剝がれていくような波の中で過ごす僕の態度です。

 

 

 

2.頭の中で物語を作るf:id:labotekichan:20210904102318j:image

日記を書き始めた当初は毎日起こったことを書こうと思ったのですが、割と初めのほうで方針が変わっています。その日に頭の中でまとまったことを書くように気づいたら変わっています。これもイラストで描いてみたのですが、僕の日記は現在と過去の話を行ったり来たりするような形によくなります。類推(アナロジー)、連想ゲームで繋がっていくのですね。これも、自分という歴史を知るということの現れなのかもしれません。基本的に1つの日記で言いたいことは1つにしています。就活のエントリー・シートの癖が抜けていません。言いたいこと(ゴール)を定めて、どの事象をどう繋げていくか考える。漸化式のような構造で、次へ次へと継ぎ足していく形です。そういう風に考えていると、すっかり忘れていた(重要視していなかった)過去の事象を急に光り輝いたように思い出すこともあります。予期しないオチになったりするので楽しいです。一方で、筋道・アナロジーのつながりが薄いと思ったら、そのルートは捨てます。

問題になるのは、僕にとって嫌な体験を書くことができるかということです。僕は書かないでしょう。そもそも、心配性・気にしすぎの性格が自爆した格好なので、病気の直接的原因となった外的要因(トラウマ)は無いのですが、もしこれからの人生でそんなことがあったら、たぶん書かないです。未来の自分のためにとっておきます。未来の自分が俯瞰して再構築してくれるのを待ちます。寝かせておきます。笑い飛ばせない事象というのは、きっと手に負えない範囲の事象で、悩んでも悩んでもなかなか前に進まないように思います。だったら、とりあえず今は手に負える範囲から考えに考えて、少しでいいから進んでいくほうがいいのかなと思っています。といっても、メッタメタのギッタギタにされた時に、同じことが言えるかというと自信は全くありません。その時は、読者の皆さんに頼らせていただきますね......

 

3.物語を日記として書くf:id:labotekichan:20210904102409j:image

頭に浮かんだ物語を実際に書くフェーズです。ただ、構造が少しややこしくなります。物語を考えていた2番の頃の僕は既に過去です。ペンを握っているのは今の自分です。ストーリーライター、もしくはナレーター(語り手)。物語内の僕も、ペンを握るのも僕ですが、時間的に距離感があります。物語を思い浮かんだ時のほとぼりが冷めている状態で書くと、想定していたオチと全く異なることがあります。頭の中の物語を文字に浮かび上がらせると、思考がクリアになっていくこともあるでしょう。小ボケや引用を入れつつ、時には韻を踏んで遊んだりと自由気ままに書いています。リズム感は自分の中で重視しています。というのも、僕は頭の中で文章を音読しちゃうタイプなので。書籍版漂流日記を作った時も、全文を音読しました。喉ガッサガサです。

 

先程書いた2人の僕の時間的な違いを有効活用すること、これが第三者視点への翻訳方法なのかもしれません。主観的な経験を客観的な言葉に翻訳すること、これは非常に大事な問題です。

自分の経験を自分の言葉で書く上で、自分だけで閉じている言い回しや小難しいことはあまり言わないように心掛けています。僕の経験を知るために、これを知らなければならない、これを知るためには、あれを知らなければならない。そのように知ることの階層が多くなると、きっと読者にとってストレスになるでしょう。関係ないところでつまづいてほしくない。そして、階層が多い状態は、きっと僕自身もその正体をわかっていない。自分の経験に基づいてもっとシンプルな表記でナチュラルに書けるはずと信じています。どうしても無理なら、比喩と類推と引用の出番です。引用する時も、ただ引用するだけでなく、先人の肩に乗ってその上で何が見えているのかをきちんと書こうと考えています。なるべく誠実に書きたい。

 

哲学系カルチャーマガジン『ニューQ』第3号には、グラフィックレコーディングをはじめ、視覚言語を研究する清水淳子さんと、現象学を専門とする哲学研究者である小手川正二郎さんの座談会が収録されています。その中で、議論や対話などを絵や図などで可視化して記録するグラフィックレコーディングの主観・客観性について議論されていました。

清水さんは「一言一句漏らさず俯瞰的に描いたとしたら、参加者たちは何かを考える必要がなくなってしまう。これはとても恐ろしいことだから、私が主観的に描いたものをみんなが疑う構造がむしろ良い。」、

小手川さんは「人の声に耳を傾けつつ、自己の主観的な見方やそこに孕まれるバイアスを省みて伝えている記録こそが、ある種の客観性に向かうのではないか。」と仰っています。

 

僕の頭の中に戻りますが、みんなが疑うためには、みんなに伝わらないといけません。それも、各々の経験に入り込める、浸透するような言葉で。要は、僕と皆さんの人生経験は全く違うけれども、スムーズに伝える工夫は心の限り尽くさなければならないということです。これがまた難しいんですけどね......

 

とりあえず、そうすることで読者が内容に没入できる訳です。一方で、ペンを握っている僕が物語の読者になっているような気もします。一読者として物語を楽しんでいる。どうせ書くなら面白おかしく書きたい、オチを付けたい。関西に生まれた人間の運命、ではないですが、僕はどうしてもそうなっちゃいます。よく関西人は話にオチを求めると言われますが、僕は少し違うと捉えています。オチというよりも、それなりに整然とした「筋」を求めています。筋が通っているから対話が進んでいく。だから、何にも接続していない独立した話は、何故その話を僕にしたのか理由がわからず不安になるのです。伝えたいことがあるから書いている訳ですね。その「筋」が頭の中で浮かんで文字にして立ち上がる、一連の流れの中で生じる感触は気持ちの良いものです。

また、日記のなかで僕はしょっちゅう「てきちゃん」に語りかけます。物語の中の僕は、今の僕にとってマスコットキャラクターみたいなものなのでしょう。かいけつゾロリでも、枠外から作者の原ゆたかがひょっこり登場しますよね。それと同じかもしれません。日記にタイトルを付けることも愛着につながっています。

 

主観と客観。言い換えると私的か普遍的かになると思います。僕のへんてこな物語に驚きつつ、共感するのか。それは私小説的であるのか。僕は文学部の出身ではないので、全然わからないのですが、そういうこともいろいろ考え方があるのだろうと思います。読者と対話することで肌感覚としてわかることがあるのでしょう。だから、僕は皆さんといつかお喋りしたいのですが。知りたい・捉えたいことだらけなんです、最近。