そもそもケアってなんだろう(1)

最後に日記を書いてから2週間ほど経ってしまった。ここ最近、いろいろ考えることが多くて、アウトプットすることが多くて、日記がついつい疎かになってしまった。ハイライトになるけれど、悩みながら今からゆっくり書くんだけど、11月に何が起こったのかできるだけきちんと書いていこうと思う。

 

11月27日に下北沢BONUS TRACKで開催されるブックマーケット“BOOK LOVER'S  HOLIDAY”に私たちゲリラ古書店フジモテキイグチが出店することになったのは以前に書いたとおり。イベントのテーマは「ケア」であり、間接的でもいいからケアに関連した選書でお願いしますとのこと。いぐっちゃんは資格勉強のため、参加するのは僕と藤本店長。

 

双極性障害の当事者と言えど、そもそもケアなんて全然考えたことがない。その言葉の裾野の広さは漠然と感じるんだけど、あまりに広すぎてアプローチの仕方がわからない。こういう言葉はだいたい、安易に用いるとさらさらと砂のようにストラクチャーが崩れていき、実体を失う危険なものと感じる。フジモテキイグチの「場」がそもそもケアなんですって安直に言っても何の意味も無い。実際に僕は救われたし確かにそうだと思うのだけど、説得力が無い。確かな手応えとして僕たちはこの言葉のぼんやりとした輪郭を経験によって掴まなければならない。可能な限り緻密でなければならない。

 

11月の初め、心理学専攻の友人たちに相談してオススメされたミルトン・メイヤロフの『ケアの本質』を買って読んでみる。

どうも、ケアは相互に尊重・信頼しあうところから始まるらしい。そして、新しい経験や考えを受け止めることで、その人格が再創造される。さらに、今まで以上に明確に自己決定をすることにより、自分自身の経験に基づいた私自身の価値や理想を選択することができる。つまり、他者を受け止めてケアすることで、それが自己成長へとつながっていく。

そんなことが書いてあった。相互作用の中から自己成長につながる話は、だいぶ昔に書いた僕の日記『フラワー・ガーデン』に書いていた。ただ、新しい経験や考えを受け止めることで自己のバイアスが打ち砕かれる、そんな捉え方をしていた。経験に基づいて私自身の価値や理想を選択することができる、ほぼ同義と思うけど、そういう捉え方もできるのかと思った。ケアという言葉が少し僕の手元へ近づいた。

 

出店申請のためにお店の説明文のプロトタイプを書いてみる。藤本さんに少し暗いと言われる。あと、てきちゃんの人生のドッタンバッタン感で面白い感じが出てないと。

後から考えると、2人のこのアプローチは少し偏っていた。僕はてきちゃん漂流日記の暗く潜り込んだ部分から、彼は漂流日記の勢いを持った力強い部分から記そうとしていた。

どちらも、僕の個人的な体験から立脚している。でも、僕を前面に押し出しすぎるのも変な気がする。僕はロールモデルになる気は無いし、個性を出しすぎるのも危うい気がする。ただ、説明文が暗いのも困りよう。悩んで悩んで、周りとの関係性から考えてみたい、そんな気がしてきた。

結果として、本を持ち寄ってお客さんと語らう活動であるフジモテキイグチの説明を初めに記して、そこから何が見えてきたのか明らかにしたいと表明することにした。当事者として僕はもちろん登場するけど、それ一辺倒にならないように。

お客さんと、出店者さんと、その他様々な方々と。相互作用の中で何を見て何を得たのかをケアという新しい視点から捉え直したい。知りたい。てきちゃん漂流日記とフジモテキイグチ、2つの活動を通してどういう変化・成長があったのだろう。そんな説明文にしていると、少し形にハマった感触があった。

藤本さんが、イベントのテーマは「ケア」だけど僕らで独自にテーマ決めていいんじゃないのと提案する。こういう時の藤本さんは頭キレッキレで非常に頼りになる。「ケアと○○」で考えてみて、一番しっくりきたのは「ケアと好奇心」。僕たちらしい。これで決まり、説明文に織り込んで申請する。

 

好奇心で、ワクワク感でここまでやってきた。そもそもケアってなんだろう。それもまた一つの好奇心である。朝、ノートと大量のフリクションを持ってコメダに向かい、カフェオレを飲みながらひたすら書き殴る。出発地点は、何事にも無関心で引きこもってゲームばかりしていた休職直後から。