線と点

先週末、ひとしずくさんで「となりの作家さんフェア」が始まり、僕も在廊する。

ひとしずくさんに縁のある方々が続々とお越しになる。フェアに参加している文芸ユニット「るるるるん」のクララさんに犬飼さん、常連のえんがわさん、書店でポップや装飾を制作しているこな・つむりさん、全国の本屋さんを駆け巡る旅人みちワタルさん、本さんぽのボランティアですっかり仲良しの中野くんとKさんも登場(Kさん名前出していいんだっけ...今度聞いとこ)。僕が大阪に帰ると宣言したことで寂しそうな顔をしている。まだ正式に決まった訳じゃないんだけどね。

店内の雰囲気が、帰省した実家に親戚が大集合したような感じになっている。せっかくなので記念写真を撮ったりする。

今回のフェアでは、大好きな漫画である『預言者ピッピ』と『ゴーダ哲学堂』を選書した。それぞれKさんとえんがわさんがお迎えすることに。嬉しいです。

帰りに名古屋までKさんの車で送っていただけることになる。日記のことなど、いろいろお喋りする。もやもやした言語化しにくいものを言葉にするのか、符号化するのか、それともそのまんまにするのか、みたいな話をする。頭がぼかーんとなる。後日、Kさんの『預言者ピッピ』のレビューを見ても、直接LINEでやり取りしても、僕の頭では到底追いつかない部分がある。同じものを全く異なる視点から見ている感じがする。ひとしずくさんのちゃぶ台に紙を置き、お互い絵を描きながら整理する必要がありそうに思う。

でも、これは日頃あまり考えないことなので刺激的である。論点がズレているかもしれないけれど、それは仕方ないと思いながら、あれって一体どういうことなんだろうとよく考える。だけど、経験を通さずに純粋な概念だけで考えるのが僕は非常に苦手なので、すぐにムムムとつっかえてしまう。自分のやりやすいように考えればいいか。肝心の問いは以下のとおり。

 

言葉で定義されたものの中でしか僕たちは生きていけないのか。例えば精神をデータ化して身体から離したら、言葉は必要なくなるのか。

 

これは間違いなく超難問である。

閃く時、その閃きを表わす言葉が直接出てこない。代わりに、紙に書いた文字、模様、景色など、そういったものがフラッシュバックするように瞬時に僕には見える。そして、最後にそれらを結ぶ線が見える。何と何が繋がっていたのか、線の結ぶ先を掘り起こすことで閃きになる。石を削って石像を作る感じ。うかうかしているとあっという間に忘れるので、なんとか食らいついて言語化してノートに記録してそのスパークを現実に留める。掘り起こす際に言葉に変換しないといけないから、言葉で言い表せないものがあるとしても、結局は言葉に頼らざるを得ないのではないかと思ったりする。それは比喩の形をとるかもしれないけど。

仮に、みんなの精神がデータ化やらなんやして繋がって、言葉無しで瞬時にやり取りできるようになっても、なんだかあまり美しくないなあと思う。浮かんだ線そのものが美しいのではなく、浮かんだ線の正体を解き明かしてパチっとハマる過程が美しいのだと思う。それは単にあんたの好みじゃんという感じだけれど。だから、僕の中では過程(どのように、How)に重きを置いているみたいです。言葉がある方が僕はいいなあ。そもそも、過程なきコミュニケーションは存在しうるのだろうか。考えれば考えるほど、確かにそう思う。たぶん泥臭い性格なのです。

でも、Kさんのレビューには僕と異なって「どこ?(Where)」が頻出するんです。現在完了形と過去形みたいな、線と点の違い。こんなを文章読むのが初めてで衝撃を受けたという訳です。

名古屋から出るまでにもうちょっと考えてみたい謎なのです。