有効射程

やくしまるえつこの『わたしは人類』という曲が大好きなんですね。

この曲のコンセプトは「人類滅亡後の音楽」。まずは、日本固有の微生物の遺伝子情報を曲のメロディーや構造に取り入れる。そして今度は逆に、微生物の遺伝子を操作することで楽曲情報を細胞内に封じ込める。そうすることで、人類が滅亡した後も、他の知的生命体が微生物の遺伝子を解析することで音楽を聴くことができる。微生物そのものが記憶装置になる訳だ。一方で、遺伝子が突然変異することで、時間が経つにつれ歌うメロディーが徐々に変化していく。音楽家の歌声なのか微生物の歌声なのかわからなくなる、人類というフレームが溶け出していく、そんな実験的な作品を制作している。

昨日、柳田国男の『日本の伝説』を読んでいたら不思議な気持ちになった。「咳のおば様」という伝説があり、老婆をかたどった石像に祈ると咳が治るらしい。この伝説は全国各地に点在するのだが、地域によっては腰を治してくれたお礼に草履を納めるというような伝説になっているらしい。口承の中で勘違いが生まれたりして、このように変化しながら広がっていくのだろうか。

『わたしは人類』と『日本の伝説』、未来と過去、照らす方向が違うけれども、似た部分があるのではないかと思ったりする。

 

ふと、双極性障害の歴史が気になって調べてみる。その概念は1850年代には確立されていたようだ。チャーチルフルシチョフ太宰治北杜夫双極性障害。でも、生まれつきの気質によって双極性障害になることもあるようだから、社会的要因のみによって生じる病ではなく、精神医療の発達及び産業革命以前から存在するのだろう。まあ、大昔においてその存在は異端だったのだと思う。『遠野物語』にも気が狂った村人が登場するけれども、世が世なら僕も何かしらの伝承の対象になっていたのかもしれない。

なんてことを考えていると、歴史の中で淘汰されずに何故現代までこの病気は残ってしまったのだろうと不思議に思い始める。治療法が確立されるのが遅かったとはいえ、完治しないとはいえ、遺伝性を有するとはいえ不思議に思う。何故この時代にこの病気になっちゃったのだろうか。やっぱり良い感じの使い道が存在するのだろうか。

 

最近図書館で借りてきた『一流の狂気』を読み進めると、双極性障害における躁状態を超未来志向、うつ状態を超現実主義というような形で言い表していた。未来に向かう創造性を見出すのか、現実を正しく認識するのか、それがコロコロ変わっていく。その性質で危機を乗り越えていく。確かにそうかもしれないと実感を持ってうなずく。

躁うつの鉛直方向の波を、水平方向の照準調整へ変換することもできるのかもしれない。超遠距離型、でも時に超近距離型。

 

理念、ビジョン、戦略、戦術……

 

これらを狂気の有効射程で狙い撃つと。うーむ、ブレにブレそうだなと少し不安になった。僕の意思に反して照準が変わっちゃいそうだから。身体に負荷をかけずに距離を変えていく、そんな憑依の訓練をしたら百発百中になるのだろうか。

 

でも、そもそも百発百中になったら何が嬉しいのだろうか。自分にとって、社会にとって。そこを突き詰めれば、ブレない軸になりそうな気がするのです。

 


やくしまるえつこ『わたしは人類』アルスエレクトロニカ授賞式 / Etsuko Yakushimaru - “I’m Humanity” (Prix Ars Electronica Gala 2017) - YouTube


相対性理論『たまたまニュータウン (2DK session) 』/ SOUTAISEIRIRON - "Tama Tama Newtown (2DK session)" - YouTube