消えたかったベランダで

とうとう全ての荷物が段ボールの中へ収まった。区役所で転出の手続きも終えた。引っ越しまであと少し。

名駅のデパ地下で見つけたお菓子を携え、会社へ向かう。お世話になった皆様にご挨拶する。支社長は僕の日記やゲリラ古書店のことをどうも知っているらしい。大阪ではどれほど広まっちゃっているのだろうか。あの不思議な経験は今後の人生と切っても切り離せない存在になるが、会社の中でペチャクチャと話そうとは思わない。聞かれたら答える程度でいいと思う。

耳を澄ますと「無理しないで」と「期待してるよ」のトーンが入り混じっている。この2つに応えることが非常に難しい。その絶妙な塩梅を狙い撃たなくてはいけない。ただ、1年半働いただけの若手が1年半休職しちゃって、そしてまた同じ職場で働けるなんてと頭を巡らすと、やはり期待には応えねばと思ってしまう。肩の力を抜いてそれをどこまでできるか、そこだと思う。Twitterでよく見るような「テキトーに働く」というものは、僕には納得できない。力の抜き方を真剣に追い求めたら、最終的にそれはきっとテキトーではなくなる。

その後、久々に師匠にお会いする。働き方などいろいろお話しするが、ここまで来たからなんとかなるだろうと気がしている。なんとかならなかったらその時はその時である。師匠曰く、Buffalo Daughter坂本慎太郎のライブは絶対行くべきとのこと。大阪でライブしないかなあ。ニッコニコで解散して2人は別々の方向に帰っていく。この街で思い残すことは無いことはないが、悔いは無い。やりきった。

 

翌日、ついに家財搬出の日になる。ベランダからトラックが来るのを今か今かと待ち詫びる。消えたくなって飛び降りようかとぼんやり眺めていた夜のベランダも、大量の漂流日記の入った段ボールが運ばれていく様を心臓バクバクで眺めていたベランダも今となっては大事な思い出で、ベランダから風景を眺めればいよいよこの街を離れてしまうのだと寂しくなる。結局この街で消えずに生き残ってしまった。今は消えたい気持ちは無く、したいことがたくさんある。学生時代からあれほど僕を苦しめていた希死念慮の薄暗い雲はいつの間にか吹き去って、目が前を向くようになった。油断はできないけれど。

出勤する人々がマンションのエントランスから吐き出されていく。ジャラジャラと吐き出されて、ついには僕しか残っていないような感じが、引きこもっている頃は怖かった。父親と幼い娘が保育園へよちよちとゆっくり歩いている。それを目で追いかけている間に、引っ越し業者さんのトラックが後ろからやってきた。それに気を取られている内に、角を曲がった2人は僕の視界から消えてしまった。

玄関にやってきたのはちょこんとした若い女性だった。大量の本が入った段ボールを2箱も持ち上げて廊下へ運んでいく。僕は1箱でも大変だったのに。持ち方のコツを教わりたいと思った。家財がどんどん運ばれていき、その間僕は掃除機を持って埃を吸い込んでいく。本棚の置いてあった位置を見ると、床が3mmほど沈んでいる。こればかりは有罪判決を食らうかもしれない。とうとう全ての家財が運ばれて家の中が空っぽになる。モップがけに雑巾がけ。後はゴロゴロして読書。

退去立ち会いの時間になる。弁論家のような担当者だったらどうしようと不安になる。インターホンが鳴り、大柄な担当者がのそのそとやってきた。

この担当者、どうも口癖が「致し方ないですね」らしい。どんな傷やへこみも「致し方ないですね」で済んでしまう。30分ほどかかると事前に聞いていたが、あっさり10分で終了。しかも無罪放免で追加請求無し。キャリーケースを転がし、胸を張って3年間住んだマンションを去る。

久々に新幹線に乗るが、最近は近鉄特急ばかり利用していたものだから酔いに酔う。グロッキーになりつつ新大阪へ搬送。新居の床を拭いてから実家に帰る。

 

翌朝、電車に乗って新居へ向かう。家に着いてしばらくしたら引っ越し業者さんが到着する。せっせと運んでもらって1時間ほどで搬入が終わる。予定より早く作業が終わったので、自転車でホームセンターに向かい日用品などを買う。

名古屋の旧居のあたりは、単身の若者がたくさん住んでいたように思う。一方で新居は割と下町な地域に位置し、平均年齢も跳ね上がっておっちゃんおばちゃんが縦横無尽に歩いている。治安はそこまで悪い訳ではなく、ほのぼのとした穏やかな街ではあると思う。

家に帰って荷解きを進める。意外にもテキパキ進んで、夕方には本が入った段ボール10箱のみとなる。注文していた緑色のビーズクッションが届く。巨大なずんだもちが床に転がっているように見える。寝転がると全身が包まれて何もしたくなくなってしまう。一生寝そべっていたい。

夜に会社の先輩が家に来るが、スマホから爆音で広瀬香美の新曲を流して耳が痛くなったので、彼は今後出禁とする。ただ、ありがたいことに本の整理を手伝ってもらい、1階は漫画・芸術、ロフトは文芸・科学・仕事関係の本に分けた。その後、ちょちょいと本棚に並べて1階の本は全て本棚に収まった。ロフトの本は山積みのまま。整理のためにロフトを昇降しているうちに、足の裏が柔らかくなった気がする。健康的な家かもしれないが、階段で足を滑らせて転落しないか心配。

 

翌朝、区役所に行く。障害者手帳を更新するが、公共交通機関が無料になる名古屋市とは違って、この街では半額となるらしい。しかも、手渡されたのは紙の割引券なので運賃の支払いが少し面倒くさい。名古屋市の福祉特別乗車券はICカードでとても便利だったのに……とショックを受ける。午後、母が家にやってきたので案内する。母、新居ではしゃぐはしゃぐ。ビーズクッションの上に転がって動けなくなっている。

 

今日、ロフト整理の援軍にいぐっちゃんがやってくる。だが、最初1時間ほどは1階であーだこーだ喋りながら2人で漫画を読んでいる。いよいよやる気になって、ロフトの本をジャンル分けしながら並べていく。並べ終わったら1階に戻って、今度は黙々と漫画を読んでいく。『モテキ』全4巻を読み終わっていぐっちゃん帰宅。読むのが速くて羨ましい。

ロフトを見ると、読んでいない積ん読が横にズラリと並んでいる。本来ならば日課にしていた英語の勉強をコツコツするべきなのだが、それよりもこの本たちを読みたい気持ちが勝っていく。読書熱でスパークが散る。今は読みたい本がたくさんある、もう止められない。